唐突に意識が開いた。
「あ、起きた!」
 目を開けると、犬の顔が真っ先に目に入った。雑誌を放り出して、畳の上をいざり寄ってくる。
「……犬?」
「珍しくぐっすり寝てたねぇ」
 枕もとまで来ると、両手を顔の脇について覗き込んでくる。眼鏡を外しているので、表情が よくわからなかった。 「ぐっすり?」
「うん。俺がちょっとだけ隅っこ齧ってもおきなかったびょん」
「……」
 しゃべるのがめんどくさくなったので、頭を叩いた。視界は悪かったが、近いのと標的が 動かなかったのとで、見事にヒットした。
「キャイン! ちょっとなのにい」
 犬が甲高い悲鳴を上げる。携帯の液晶表示を見て、俺は呆然とした。
 もう夕方だった。
「俺は寝ていたのか」
「だからぐっすりだってば」



 眠りすぎていたせいだろうか。体中の関節が固まっていた。体を起こすと、すぐにメガネをして いないのが不安になる。
「はい、メガネ」
 犬が差し出してくれたが、持ち方は酷かった。
「指紋つけるな」
 あれ、は、夢だったのだろうか。思い出すだけで肺の重くなる、完璧に気配を消しているくせに、 強烈な存在感。空気だけで、相手を氷付けにするような、静かなのに圧倒的な視線。自分の武器が、 手のひらの内側で温まっていく感触。渇いて粘つく喉。あれが、夢?
「何かなかったか」
「何って何?ナニ?」
 この調子では、なかったらしい。もちろん、何か変事があったなら、こうやってのんびり夕方まで 寝ていられたはずはないのだが。
「俺はどういう状態で寝ていた?」
「状態って。ふつう」
「そうか」
 よくある、ことだ。夢の中では夢は現実だ。あまりに生々しい夢を見て、目覚めた時にはそれが 夢だったかどうかわからない。(どちらが夢でどちらが現実かなんて、あなたに判断できること でしょうか?)(もしかしたら、今僕とあなたがこうして話しているのも、夢かもしれませんよ) いつだったか、骸様が笑いながら言った言葉が蘇る。(あの人は、意地悪だ)
 考えてみると、夢ならではの不条理なことがいくらでもある。まず、なぜ、あの「侵入者」と遭遇した のに、自分は無事なのか。次に、頭は悪いが鼻の鋭い犬に気付かれずに、どうやって出て行ったのか。
第三に、そもそもどうやって入ってきたのか?第四に、どうして何もせずに去った?
「柿ぴー?フリーズしちった?」
「犬、骸様は」
 そうだ。「あれ」は、居間の方へ向かっていた。あちらには、台所と、勝手口と、居間があり、 居間には骸様の私室がある。
「朝から見てないびょん」
「なんだと?」
「だいじょぶ、家には居るよん。でも出てこないの」
「あの部屋からか」
 骸様の私室には、骸様と、現在はあの少年がいる。
「注意したほうが、いいかもしれない」
「あの子?」
「いや、骸様にだ。これ以上膠着状態が続いたら、あの方のことだ。
自分で中に入って確かめかねない」
「うっひゃー、そっち」
 犬が盛大に顔を顰めた。俺も犬も、骸様とは長い付き合いだ。心当たりもそれなりに、ある。
「骸さん、けっこういつもやりすぎになっちゃうんだよね、イロイロ」
「……ああ」
「切り札ってさぁ、超強いから切り札なんれすけど、使うとリスクやらお代やらがデッカイから 切り札なんだもんねぇ」
「ああ」
 そう。ここぞと言う時に使う切り札は、逆に言うとここぞと言う時しか使えないということなのだ。
「ね、柿ピー」
 そして犬は、珍しく躊躇した。
「なんだ」
「あのね。……こういう時おれ、骸さんはちょーつええしかしけーし、なんでもできちゃうし やっちゃうけど、人間なんだなあ、って思って、嬉しくなっちゃう……のれす」
「……そうか、そうだな」
  「こんなこと言うと、人間は醜いって言われちゃうかな」
 少し俯いて、犬は小さく唸った。






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