扉の向こうは、当然暗闇だった。一歩踏み出すと、古い床板がぎしりと鳴った。廊下は当然のことながら暗く、 ほとんど何も見えない。土壁に手を付くと、ざらついた冷たい感触がした。あれ」は、いない。
(やはり、リビングか)
 極端に視界が悪いとはいえ自分の家、いやというほど見慣れている。しかし、 目の前の闇は、質量をもってのしかかって来るようだ。静まり返っているからだろうか。視界が悪いから、他が鋭敏に なっているのだろうか。一歩一歩歩くたびに、床の軋みが、大きく響いた。 しかし、そういえば『あれ』は、足音一つ立てていなかった。
 リビングへのドアは、閉まっていた。手探りでノブを掴み、ドアを開く。普段は気にしない蝶番の擦れる音が、異様に耳に障った。



 テレビの主電源の赤いランプ。冷蔵庫のモーター音。北東の南天が、風で窓に擦れる音。カーテンの隙間から、星明りが射している。 全く何も変わらない、いつもどおりの居間だ。
(いない……?)
 段々と慣れてきた目に、『あれ』は映らなかった。
 闇は、そこかしこにたむろしている。より隅の、より陰の、より暗い場所に、視線を通さない漆黒の幕になって固まっている。その どれもがこちらを伺っているような感覚に囚われて、俺は息を殺した。 (ばかな。何を怯えている?)  居間に『あれ』の気配はない。ならば、残るはあそこだけ……骸様の、お部屋だけだ。
「こんばんは」
 唐突に、背中の後ろで声がした。
「……!」
 振り向いて臨戦態勢を取ろう、としたが、どいういう訳か指一本動かない。全身の毛穴から悪い汗が噴出すのがわかった。
(気配が、なかった?)  完璧に消していたとでも、言うのか?まさか、ありえない。しかし、そのまさかだったなら、俺は今、恐るべき危機に直面している 、という、ことだ。 
「……お前は……何者だ」
 口は、動いた。冷静を装った声は、自分でおかしくなるほどみっともなく掠れていた。
「あれをうちへ帰してやれ」
 二度目の声。取り乱した俺とは対照的に、寸分の揺れもない、落ち着き払った口調と、しかしそれに似合わない、 どこか甘く響く、幼い声だ。
「……できるはず、ない」
「できる」
 その声は、少しの苛立ちもなく、ただ静かな確信に満ちていた。状況も忘れて、俺はそれが不思議になる。
「どうして、そんなことが言える?」
「お前があれを、かわいそうだと思っているからだ」
「……何を」
 言っている、とは続けられなかった。
「お前はあれに、自分の姿を見た。意思なき籠の鳥は、辛かろうと思った」
「……お前が」
 混乱と焦りで真っ白になった脳が口走ったのは、自分でも意外な言葉だった。
「あいつなんじゃないのか」
「……」
 『それ』の返事はない。 「この家の住人に気付かれず、しかも痕跡を残さずに入ることは、まず不可能だ。そして、 もしもそれが出来るような人物が居たとして、何故何もしなかった?」
 だが、俺は構わずしゃべり続けた。勝手にすべりでた言葉に、自分自身で驚く一方、俺は納得もしていった。
「侵入者なんて最初からいなかったんだ。俺が会ったのは、この家の中の誰か」
 最近ずっと頭のどこかにひっかかっていたピースが、合わさって一つの絵になっていく。
「犬は違う。骸様でもない。もちろん俺でもない。なら、残っているのは、骸様の客だけだ」
 記憶を手繰り、最後のピースを捜す。
「名前はなんだったか……つなよし?」
 『それ』は答えず、代わりにかけらの動揺も見えない静かな声で、言った。
「帰してくれ。お前の主が、もう限界なのもわかっているんだろう」 




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