町で一番桜が多いのだから、当然と言えば当然なのだけど。 ここに来ると眩暈がひどくなる。 なのに僕はここへ来た。 町で一番桜が美しい、ここへ。 今日も桜は満開だ。 散ることも褪せることも無く、咲き誇っている。 「こんばんは、綱吉」 「こんばんは、ヒバリさん」 たそがれ時でも、綱吉は坂の下にいた。 「こんな時間なのに、ここにいるの」 綱吉は目を逸らして、頬を染めた。 「……あなたが、来ないかなって……あと少し、もうちょっとだけ、ってずるずる待ってたら、 こんな時間になっちゃいました」 ような気がする。かもしれない。おなじみの眩暈に加え夕暮れの薄闇に邪魔されて、 すぐそばの顔すら良く見えない。 誰そ彼、とはよく言ったものだ。 「でも、待ってて良かったです……一昨日俺ヒバリさん怒らせちゃったし、 昨日来なかったから、もう、来ないんじゃないかって……」 そして僕の恋人は俯いてしまう。彼はとても臆病で、どうしようもなく弱くて、しかも卑屈で、 だから疑り深い。いくら愛を告げようが、完全には信じようとしない。 「ごめんね、昨日今日、どうしても確かめたいことがあって」 「え?」 見えなくてもこれはわかる。綱吉はえらく驚いていた。 「なに」 「ヒバリさんが……謝った……」 驚愕を通り越して呆然としている。人が謝るのがそんなに珍しいと言うのか。 「……そんなに僕は、傲慢に見えるかい」 「見えるって言うか……じゃなくて。貴方は誇り高い人だから」 「誇り高い」 「人に謝ったり、負けを認めたり、しないでしょう。だから、驚きました」 一つ一つの言葉を区切って綱吉が言った。 「そう……なのかな」 「どうしたんですか、ヒバリさんらしくない」 「僕らしい」 「……ほんとにどうしたんですか? 今日のヒバリさん、なんか変」 「ねえ、綱吉」 「はい」 律儀に返事して、遠慮がちにこちらを見ているのが想像できる。 その声には戸惑った色が滲んでいる。だが本当に、そうだろうか。 「僕らしいって、どういうこと? 僕ってどんな人間?」 闇に包まれて、見えない。綱吉からも同様だろう。 「ヒバリさん?」 僕の名を呼ぶ音に、いつもより多い不安が見える。 「僕は今日まで、この町で生まれて、この町で育った。そう思っていた。でも、この町のことが、 何もわからない。何も知らなかった」 「どういうこと、ですか」 「綱吉は、この町から出たことがある?」 「ええ……ほとんどないですけど。小学校のころの修学旅行と、遠くの遊園地に一度。 ああ、秋に隣町の友達に会いに行きました。そのくらいですかね」 「どうやって?」 「どうやってって、修学旅行、は電車です。遊園地は車と船で、隣町には歩いて」 「本当に?」 「本当にって……」 「昨日、駅に行ってみたんだ」 「はい?」 「一日待ってみた」 「電車は、来なかったよ」 「そん、な……」 「時刻表はあったし、そこには20分ごとに一本、ラッシュ時は10分に一本の電車が記されていた。 田舎町にしては上出来だね。でも、一本もこなかったよ。電車だけじゃない。海へ行くバスも。今日 確かめた。隣町に行く道は、工事中だとかで封鎖されてた。だけど、何の工事かいつま でやってるのかも、答えられない」 「それって、もしかして」 ぼおっとしている癖に、勘のいい子だ。 「うん」 僕は頷いた。 「僕らはこの町に閉じ込められている」 綱吉が、喉の奥で悲鳴を上げるのが聞こえた。 しばらく口元に手を当てて黙り込んだ後、彼は恐る恐る言い出した。 「地震、とかの、災害があったとか……」 「そんなものがなかったのは、身を以って知っているだろう、綱吉。近辺であったとしても、食料や水、電気やガスなんかのエネルギーが途絶える こともない」 「新種の病気が発生しているとか」 「それについても同じ。第一、見たこともないような病気の患者が、この町にいるかい?」 どちらも、すでに考えた答えだった。 「……ヒバリさん」 「……」 「……」 思わず黙った。そう言えばそうだ。 「だとしても、僕一人閉じ込めるために、町ひとつを閉鎖? ナンセンスだね。他に感染する 様子もない」 「……」 「ことはそう単純でも現実的でもないんだ。変だとは思わないかい、桜」 「え?」 「いつから、咲いている?」 「……あ」 綱吉が思わずと言った様子で顔を上げる。その頭上には、絢爛に咲き誇る、満開の桜。 「昨日も、一昨日も、その前も、一週間前も……もうずっと、思い出せないくらい咲いている」 ずっと、そうずっと見続けてきた光景だ。 「そういえば……春休みって、こんなに長いはず、ない、ですよね」 震えた声で、綱吉は間の抜けたことを言う。所帯じみた、だがそれだけに身に迫る言葉だ。 僕の目は段々闇に慣れてきて、綱吉の強張った顔が見える。 綱吉からも、僕の顔が見えているだろうか? 「うん」 そして僕は、もう一度頷いた。 「この町の時間は、止まっている」 十 作話トップ |