俯いたきり黙っていた綱吉が、唐突にきっぱりと顔を上げた。
「ヒバリさんは、どうするんですか」
 唇をぎゅっと結んで僕の顔を見る。綱吉の目も闇に慣れたようだ。でも、その肩は小さく震えていた。
「綱吉にあったあの日、僕はこの坂を登ろうとしていた」
 綱吉は黙って頷いた。すぐにまた僕を見る。
「どうしてなのか全く思い出せないけど、でもだからこそ怪しい。きっと、 この坂の上に、何かのヒントがあるんと思うんだ」
 決断を口にするとき、何故か迷った。
「僕は坂の上に行ってみようと思う」
「……わかりました、でも」
 彼の反論に驚いていると、続いた言葉に更に驚かされた。
「俺も連れてってください」
 綱吉が僕の腕に触れて、下から顔を見上げてきた。間近で見ると小さな唇が色を失っているのが わかった。暖めれば治るかも知れない。僕は、彼の頬を両手で包んだ。
「どうして」
 頬は、予想通りひやりと冷たい。戸惑った目をしたものの抵抗しようとはせずに、 僕の手の中から僕を見返してくる。
「ここは、ヒバリさんの町ですが、僕の町でもあります。……どうなろうと、最後まで見届けないと」
 そう言って綱吉は笑おうとしたようだった。青褪めた頬がかすかにひきつる。



 やはり長い坂を登るにつれて、眩暈も吐き気も動悸も悪くなっていく。僕の半歩後ろについて、 最初は縋っていた綱吉の手が、徐々に支えるものに変わって来た。
 腹立たしいことこの上ないが今はなりふり構ってはいられない。じっとりと額に滲んだ汗を 袖でぬぐっていると、背中の手が学ランを引いた。
「ヒバリさん、見て」
 坂を登り始めてから初めての綱吉の声だった。
「なんだい……ああ」
 言葉を失う。綱吉が指差したのは、今まで歩いて来た道の、その出発点だった。鬱陶しい桜と桜の間の、 ぽっかり空いた隙間から見えている。
 町だ。
 町は小さな灯りを集めて、たそがれ闇の中にぽっかりと浮かんでいた。 ありふれた、なんてことない、どこにでもある、しょぼくれた田舎町の夜景だ。しかし。
「綺麗だね」
 つまらないものの寄せ集めのはずのそれがやたらと胸に迫った。暗くて、町中の至るところにある 桜が見えなかったのも良かったのかもしれない。高台から眺めると町全体が桜色に染まっている という並盛だ。さぞかし不快な光景が見えただろう。
「きれい?」
 綱吉はまた驚いたようだ。今日は驚かせてばかりいる。
「うん。君、そう思ったからわざわざ呼び止めたんじゃないの」
「……そう……ですけど。まさか、ヒバリさんがそんなこと言うとは思わなくって。 『つまらないことで人の足を止めさすんじゃないよ、噛み殺されたいの?』とか 言うんじゃないかと」
「君は僕をなんだと思ってるの」
 この台詞も二度目だ。これでも僕内比では精一杯甘く接しているのに大層心外だ。
「そうですよね。何だと思ってたんだろ。俺、よく考えたらヒバリさんのことなんにも知らない んだ……」
 目は遠くの灯りを見つめたままで、綱吉が寂しそうに笑った。
「……綺麗なものは綺麗だよ。事実はかわらないさ」
 少し迷って、やはり言うことにする。
「これから知れば、いいよ」
 大きな目を更に大きくして僕を見て、それから綱吉は、顔の全部で笑った。
「うん、はい、そうですよね……」
 顔をくしゃくしゃにした満面の笑みはどこか泣き顔に似ている。
「きれいですよね。宝箱みたいだ」
「宝箱?」
「ここは俺の宝箱みたいなもんです。大事なものは全部ここにある……ヒバリさんは、この町好きですか」
「さあ」
 綱吉の笑顔が曇ったので、僕は慌てて付け足した。
「今日この日まで、出ようとも思わなかったんだから、それなりに愛着があるんだと思うよ」
「……良かった」
 溜息を付きもう一度町を眺め、それから僕を見て、綱吉は笑みを消した。
「引きとめてすいません。さあ、行きましょう。早くしないと、本当の夜が来てしまう」



 半ば予想していたことであったが、坂の頂上は、見事な桜の森だった。
一抱えほどもある立派な木が、思い思いに枝を伸ばし、 競うように花をひしめかせている。桜、桜、桜。ここでもやはり、桜だ。 この町は本当に、どこもかしこも桜を植えている。町の真相を知った今では、薄気味悪くすらある。
 いっそう強くなった眩暈を堪えて、僕は一歩、また一歩歩き出した。歩く、歩く。 歩けば歩くほど、不調は酷くなる。それが逆に、自分が元凶に近づいていることを確信させる。 桜の根の間に、僅かに人の通う跡が残っている。それは、道だ。僕は歩いた。眩暈を隠して、吐き気を 無視して、背筋を伸ばして、腹に力をこめて、顔を上げて、歩いた。傲慢なほどに誇り高くみえるように。



「………桜」
 はたしてそこにもやはり、桜があった。おぼつかない足元を叱咤して僕はそれを見上げた。
 今までのものとは比べ物にならない。見上げても終わりの見えない大樹だ。例に漏れず、華やかに咲き誇っているが、他の桜が色あせて見えるほど、美しい。
 美しい。僕は眩暈も吐き気も、ここへ来た目的すらも忘れて、その桜に見入った。意味も理由も無く それはただ、ひたすらに美そのものであった。
 一際強い眩暈に襲われて、僕は立ち尽くした。無様にふらついていないことを強く願うが、 それを確認するすべすら、今の僕にはない。本当、忌々しいことこの上ない。ほんの少し視線を上げれば、 この僕をこんなに不快な状況に貶める元凶が見える。僕はこの感覚を既に知っている。そうだ、思い出した。


 僕はここに、来たことがある。








「……やっと来たんですね」
 大きな声ではなかったが、完全な静寂の中、その声はいやに響いた。僕は、 静かなのが逆にこちらをいらいらさせる、空気を読もうとしないこの声を知っている。
 僕は、声の主と対峙するために、ゆっくりと振り返った。






十一

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