綱吉の腹と地面の間に爪先を押し込んで力を込めると、たやすく裏返った。
それほど軽いのだ。
 仰向けになった彼は何度か咳き込んだ。小さな顔は泥と血にに塗れ、桜の花びらを数枚貼り付け ていた。口の端から赤の混ざった泡がこぼれている。無様だ。しかし、その惨めな姿を見ても僕の 気は晴れなかった。怒りは、すでに自分でも抑えていられるのが不思議なほど膨らんで、体中を 痛むほど熱している。
「綱吉」
 馬乗りになっても抵抗一つしない。黙って目だけが僕を見る。そこからはあの得がたい光が すっかり消えていて、なんだか色のついた透明な石ころが嵌まっているようだった。
「やっぱり僕を馬鹿にしてるの。その腑抜けた戦いぶりは何さ」
 苛々と汚れたシャツの胸倉を掴むと、がくりと顎が仰け反った。
「聞いてるの」
 白い喉がぴんと張って、まるで噛み付かれるのを待っているようだ。
「いいかげんにしないと噛み殺すよ」
 すると、変化があった。あろうことか綱吉は、笑った。
「だって、俺本調子じゃないんですよ……」
「言い訳する気?」
「……ですよね、そんなの許してくれませんよね。だったら」
 僕が相当怒っているのがわかったらしい。綱吉は笑みを消すと、顔を戻して僕の顔を見た。 瞬間、光が戻った気がして目を凝らす。しかし、満月の明るさの中でも その目はやはり澄んでいるだけだった。

「噛み殺してください」



 切れた唇から漏れたのは、信じられない言葉だった。
「……綱吉?」
 綱吉は既にまぶたを下ろしていた。大きな瞳が隠れると、幼い顔は巨大な空虚で占められていた。 かすかに動く喉だけが、彼にかろうじて残った生への意志を示している。
「さっき自分で言ったでしょ。噛み殺すよって。そうしてください。あなたが勝って、俺が負けたんだから。それが理でしょう」
「何を言ってるの」
「殺してください」
「何を言ってるの」
「ヒバリさんこそ何言ってるんですか。俺たちは、殺し合いをしていた。そうでしょ」
「桜の王の言葉とは思えない」
「そちらこそ、闇の凝りの言葉とも思えない」
「桜は、潔いものでしょう。咲き終わったら何の未練もなく自分から散る」
「桜は、生き汚いものだろう。跡形なく消えてしまってもまた来年咲く」
「桜は、本当は弱い木です。病気になりやすくて寿命も短い」
「桜は、人間どもが必死で守り育てて誰にも負けない王になったんでしょ」
 死体のように目を閉じたまま、綱吉は微かに口元に力を込めた。笑みにはとうてい見えないかすかな歪みが生まれた。
「ここには誰も居ません。守ってくれる人も、育ててくれた人も。あなたと俺の、ふたりぽっちです」
「ここには居なくても、どこかでいつだって待っているでしょ。君はけっして一人にはなれない」
「いつも群れるなって怒ってた癖に」
「今も怒っているよ」
「そんなに俺を否定ばかりするくらいなら、はやく終わらせてください」
「やだ」
「それほど俺が憎いですか」
「嫌いだよ」
「嫌だな」
「だって君嘘を付くから」
「嘘なんてついていない」
「なら、君どうしてわざと負けたの」
「…………」
「ねえ、あの日桜の下で」
「…………」
「どうして僕を殺さなかったの」




「僕は死のうと思ってたのに」





十四

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