僕と彼との間を、薄紅の花びらがひとひら横切った。それが地面に落ちぬうちにもうひとひら、 舞い落ちる。追いかけるようにして、もう一枚、また一枚、二枚、三枚。そして、数えられぬほどに。 桜が散り始めた。 「君がやったことだったんだね、全て」 終わりへと走り出した憐れな花など、目に入らないらしい。彼はまっすぐ に僕の目を見ていた。 「思い出されましたか」 桜の間から差し込む月光が、彼の頬を照らしていた。温もりのない死んだ光を受けて、彼の頬は魚 の腹のような温度のない白さをしていた。 「ああ、全部ね」 いつのまにか月が昇っていた。時間の経過が早い。いや、そもそも『ここ』には、時間なんてものは なかったのだ。 「そうですか」 自分の術が破綻したと言うのに、微塵の狼狽も感じられない平坦な声だった。 「うん、思い出したよ」 桜だけでなく、僕にも興味がないのだろう。その目からはおおよそ感情と言う物が覗えない。 「僕と君は殺しあってたんだったね……綱吉」 そのひとひらひとひらはあまりにちっぽけで軽い。たとえどれほど高い枝から墜落しようと、音一 つ立てることがない。黙ったままで土に帰っていく。終焉は静寂の中にあった。 「始めてであった日、僕の不調が酷くなったから、君が心配して近寄って来たんだと思ってた」 綱吉が立っていた。脂肪にも筋肉にも見放されたやせぎすの小さい体、中でも特に華奢な首と手足、 浮き出た節々の骨、 体に似合いの小さな頭の真ん中の、大きな茶色の瞳。どこをどう見ても見慣れた沢田綱吉でしかない。 その表情のみを除いて。 「逆だったんだ」 そのただ一点が、彼を見知らぬ人にしていた。人の顔と言うのは、造作だけでなくそれが宿す人格 で変わる。その見本のようだ。仮面を被ったかの、もしくは剥がしたかのように様変わりしていた。 「君が近づいたから、僕の不調が酷くなったんだ。違う?」 「ええ」 全く感情のない声で綱吉が答える。綱吉が僕を見る時に必ずその目にあった怯えは、跡形なく消えて いる。怯えどころか他の感情も全く見えない。 「なぜなら、君が僕の天敵だから」 舞い散る桜と僕を、何の感慨もなく映す瞳は、限りなく透明に近い。 「僕はあしきもの」 そう、僕は人間ではなかった。魔物と呼ばれ悪魔と呼ばれ、あやかしと鬼と呼ばれる、死と恐怖 を振りまくものだ。 「そして、君はその対極。よきもの、高き存在……具体的には、この桜の、精霊だ」 その瞳の純度は到底人が持ちえるものではない。僕はもう一度、背後の大樹を振り返った。 「この樹も花が……散り始めているね。君の本体なんだろう?そして多分、君が作った檻の要でも ある」 この森の、この世界の王であろう美しい樹にも、終わりが訪れていた。 「わかっているなら、わざわざ聞かないでもよろしいでしょう」 「相変わらず愛想の無いコだね。僕は長い夢から覚めたところで、まだ寝ぼけているんだ。付き 合いなよ」 「夢」 完璧なポーカーフェイスで綱吉がぽつりと呟いた。感情などという下賎なものはないのかもしれない。 「そんなところだろ、君が僕にかけていた術は。記憶の操作と暗示くらいかな。 そして君の作ったこの町に、永遠にループし続ける時間の中に捕らえていたんだろ?」 永遠に満開のままの桜。夏の来ない春。そして、ひらひらと舞い散る花は、時間が動き出した証だ。 「小さいと言えど町ひとつ分の時間、いくら花の王者と言えど、重荷だったんだね。時を経る内に君の力が衰え、僕の暗示が解けかけた。 そしてここに来ようとしたから、慌てて直接邪魔をしに来た。術の掛け直しもしたの? 君の力が弱ってるのは君の世界に侵入者を許しているあたりからもわかるね」 「おおよそ合っています」 「そう、嬉しいよ。……久し振りだね、綱吉、桜の王」 檻は破れ、とりこにしていた獣が出ようとしているのに、焦りも狼狽もない。興味が無い、関係ない とでもいいたげな無表情だ。今や視界を塞ぐほどに降り注ぐ桜雨の下で、王は一人静謐を保ってい る。 「…いつになるのかな。何年…いや、何十年、いやもっと昔かもしれないね。僕が屑の群れを掃除していたら、 君が邪魔をしたんだっけ?……僕は君に夢中になった。君はとても強かったからね。ゾクゾクしたよ」 あの日と全く変わらない、ビー玉みたいに無機質な目が微かに頷いて肯定を示した。 「何度か戦いましたが、決着が付きませんでした」 まるで昨日のことだ。いや、彼に円環を描く悪夢を見せられていた僕にとっては、実際に 一夜眠った後と変わらない。 「そう。僕は君を噛み殺したくってたまらなかったのに、なかなかさせてくれなかったよね。でも、ある日 ようやく終わりが見えた。僕の望んだ形ではなかったけれど」 僕の中にも、昨日のことのように屈辱と怒り、それから記憶が蘇る。 「ええ。俺が勝ちました。しかし、あなたが強すぎて殺すことが出来なかった」 「だからこの町を作り、閉じ込めたの?」 火のように熱い激情が体を満たしていく。一瞬で爪の先から髪の一筋までに回った。彼を見据え続ける両の目にも 届いているだろう。そして僕はそれを隠すつもりもなかった。 「ええ」 こちらは対照的に、平坦な声だ。僕をいらつかせるためにわざとやっているように思える。 「舐めた真似してくれるじゃない」 「それで、どうするんですか」 他人事のような淡白さで、綱吉、いやそう呼んでいたものが聞いた。 「決まってるじゃないか」 そんなこともわからないなんて言わせない。 袖に仕込んだ武器を取り出し、ゆっくりと姿勢を整える。 「仕切りなおそう。……今度こそ君を、グチャグチャにしてあげる」 顔の前に構えると、満月の影を弾いてトンファーがかすかに輝いた。 十二 作話トップ |