『SとMの世界』



 土下座なんて時代劇の中でしかお目にかかったことはなかった。
そして別に見たかった訳でもない。
 そんなことされても困るんですけど。
 ごく一般的な知識と平凡な感性を持ち、特殊な趣味も持たない沢田綱吉の感想は、だ
いたいそんなところだった。
 つまり、引いていた。ドン引きだった。
 沢田綱吉の前に男が一人這いつくばっている。
 より詳細に記せば、膝を付き、上体を前に倒し、地面に額を擦り付けている。まさに
ジャパニーズ・トラディッショナル・スタイルの謝罪、要は土下座だ。実は一箇所間違
っていて、本当の土下座は額は地面から少し離すのだが、不勉強な綱吉はそれを知らな
かったし、だから気付かなかった。
 沢田は口まで上がってきた溜息をどうにか噛み殺し、右に目を逸らし、左に目を逸ら
し、ようやく観念して正面の男を見た。
「とりあえず顔を上げてよ」
 顔を伏せたまま、男は首を左右に振った。あああんなに擦り付けて。痛そうだ。痛くな
いんだろうか。ますます怖くなって沢田は頬を引き攣らせる。
「顔を上げてってば。獄寺くん」
 男、獄寺隼人は更に地面に額を擦らせる。沢田綱吉はついに堪えていた溜息を付くと、
最後の手段に出ることにする。
「俺の言うことが聞けないの」
 効果は覿面だった。光速で顔が上がる。
「……ああ……」
 思わず嘆息が漏れた。自分でさせておいて、獄寺と目が合った途端沢田は後悔する。い
や、とりあえず彼の土下座を止めさせないことには話は始まらないのだから、彼に後悔す
るなと言うのも酷な話ではある。あらかじめ、選択肢は選びたくないひとつきりしかなか
ったのだから。
 心底うんざりした沢田は、自分をこの最悪の気分に陥れた獄寺を憎んだ。
(蹴っ飛ばしてやりたい)
 苛々した気持ちのままに、椅子の肘おきを指先で叩く。獄寺が怒られた子どもそのもの
の顔になって更に縮こまった。そんな情けない姿でさえも、彼の整った顔がまるで悲劇の
主人公のように演出している。彼を慕う女性の歓心ならば買えただろうが、沢田は更に怒
りを募らせた。(たとえこの無意味に美形な顔蹴っ飛ばしても、無駄に綺麗な頭踏みつけ
ても、彼は黙って受け入れるんだろな)(逆に喜ばれたらどうしよう)(それが怖くて、
できない)  不安が杞憂ではないことを、彼はその血の力で直感している。
 そうだ。獄寺隼人は沢田綱吉に支配されることを望んでいる。沢田綱吉はそれ
を知っている。
 いつのまにか、舌打ちをしていた。獄寺の肩がびくりと震える。それが沢田の頭を少し 冷ました。
 端正だがどこか野性味のある美貌が、一心に沢田だけを見つめている。中でも印象的な、
強い光を湛えた目のふちがうっすら濡れて光っているのに気付いて、沢田は密かに息を詰
める。
(ったく、なんて顔してるんだよ……)
 沢田の視線は再び泳ぐが、獄寺の視線は一瞬の遅れもなく沢田を追う。
(だから見るのやだったんだよ)
 獄寺隼人の目は、世界から彼ら以外を消してしまう。二人だけになった世界で、沢田綱
吉はたやすく至高の存在となってしまう。神よりも尊く、酸素より不可欠なものとなって
しまう。彼はそのことを、理屈の追いつかない次元で知っている。酷い悪寒を感じて両腕
で自分の体を抱いた。
 なんというおぞましさ。そして。なんという心地よさ。
 沢田は最後の溜息を付き、一度目を閉じて、開いた。次の瞬きの後には、全身を粟立た
せている不愉快な快さを押し殺し、友人として口をて口を開くだろう。



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