台所のテーブルで、骸様と俺は黙って向かい合っていた。俺は最近買って貰った携帯ゲーム機 で遊び、骸様はメモを前にペンを右手にして、ペンの先を頬に当てたり小首を傾げたりしていた。 「粘膜と皮膚って、違うものを塗ったほうがいいんですかね」 顔を上げたが、今度は口元に右手をやった骸様の視線は、メモに落とされたままだ。独り言だったらしい。 「粘膜専用のものが売られてるってことは、やっぱり別々にしたほうがいいってことなんでしょうか」 「……そう思いますが」 「そうですね。そうします。ありがとう千種」 骸様は、保湿剤(低刺激のもの)、と書かれた下に、リップクリーム、と書き足された。 彼の肌が乾燥気味なのが、気になるらしい。なんとなく居たたまれなくなって、俺は落ちてもいない眼鏡を押し上げてごまかした。 「千種、千種!」 ついさっき買い物に出かけたはずの骸様が、玄関で俺を呼んでいる。 「どうなさい……犬……」 一目瞭然だった。 「えへへ……たらいまれす」 「……犬」 「犬、何か他に言うことはありませんか」 冷え切った声で骸様が言った。 「……ごめんなさい」 すん、と鼻を鳴らして犬が縮こまった。しかしそんなことでは服についた泥も血も、なんだかよくわからない汚れも隠せは しない。二日ぶりに帰って来た犬は、どういう訳か全身ずぶぬれで泥まみれで血まみれだった。嘆かわしい。 更に嘆かわしいことには、こんなことは珍しいことではないのだ。 「犬、あなた、ここで僕と出くわさなかったらそのまま入るつもりだったでしょう」 「……あい」 「あなたが部屋を汚す度の大掃除がどれだけ大変か知っていますか?千種に悪いと思わないんですか」 「で、でも、手伝ってます」 「当たり前だろ」 「当たり前でしょうが」 見事に意見が一致した。俺の顔を見て、もう一度犬を見て、骸様は溜息を付き、苦笑いを浮かべた。 「千種、とりあえず庭で洗いなさい」 「はい」 「ちょ、な、骸さん、待ってくらさい!庭の水道お水しか出ないれす……!」 「知ってますよ。だからなんです」 犬は喉の奥でくう、と唸った。 「……なんでもないれす……」 「犬、行くぞ」 「まじでー?!」 往生際悪く犬が逃げ回り、またホースを手で抑えたり(バカだ)したので、犬の汚れが取れて、顔色を真っ青に唇を紫にしてがたがた震え始めた頃に は、俺も大分濡れていた。眼鏡に水滴がついて視界が悪い。庭も水浸し、せめてもの救いは洗濯物を干していなかったことだ。ムカツク。 「シャワー浴びたい…」 「なら浴びればいいですよ」 すばらしいタイミングで骸様の声がかかった。 「骸様」 「骸さん!」 縁側のガラス戸が開いて、バスタオルを持った骸様が立っていらした。 「大体綺麗になりましたね。お風呂を入れましたから、足だけ拭いて入りなさい。千種も一緒に入るんですよ。 そんな格好で居たら、風邪引いますからね。せっかく無事ですんだ部屋も濡れちゃいますし」 「はい」 「やったー!かきぴとお風呂入るの久しぶりだよね!」 「……行くぞ、犬」 「しっかりあったまるんですよ。犬は石鹸使って洗うこと。じゃあ、僕は行きますね」 「えー、骸さんは入らないんすか」 「それはまた今度ね。今はお買い物に行かないといけないんですよ」 「いってらっさい!」 服は全滅だった。最初から全裸の犬を風呂場に叩き込んで、一枚一枚脱いでは洗濯機に放り込むことを繰り返していると、 くもりガラスの向こうから、あったまって間延びした犬の声がする。 「ねーかきぴ、お客様?」 「ああ」 「どこ?匂いはするのに姿が見えないれす」 「骸様のお部屋だ」 「ええー?えろい」 主に対する言葉とは思えない。 「失礼だぞ犬」 「だってー」 びしゃんと水の跳ねる音がした。 「お客様なにしてるの?」 「寝てる」 少し考えて、つけくわえることにした。 「ずっと」 「ええー?やっぱえろいー」 「そうか?」 「えろいってば。柿ピーにびー」 反論しようとして、骸様のベッドにうずもれた、やせぎすの小さな体を思い出した。 「……それもそうか」 「ねー」 湯に浸かると、犬の体積でふちぎりぎりまで来ていた湯があふれた。少しもったいない。末端がじんじん痺れて、俺は体が随分冷えていたことに気付いた。 作話トップ |