柿本千種は動揺したが、分厚いレンズと動かない表情は、それが外に漏れるのを防いだ。



 千種が『彼』を逃がした後、帰って来た六道骸は、何故か彼を責めも罰しもしなかった。それらを予想し、覚悟していた 千種の頭に手を置くと、骸は全く予想外のことを言った。
(引っ越しましょうか、千種)
(骸様?)
(田舎の生活ももう飽きたからね。千種は違いますか?ネット環境が悪いって、怒っていましたよね)
(いえ、俺は)
(嫌ですか?)
(いいえ。骸様。俺は、あなたの行かれる所ならば、どこへでも参ります)
(そう……)
 静かに頷くと、六道は千種の頭を撫でながら悪戯っぽく微笑んだ。
(実は今日、新しい家を見つけてきたんです)
 犬と千種があっけに取られたが、素直に従った。転居自体は珍しいものではない。 敵が多く、常に何かから逃亡している彼らにとって、それは日常の一部であった。戸惑 いながらもてきぱきと行動し、あっと言う間にすべてが終わった。骸が叩かないと映らないテレビも、鬼門の南天も、 春の準備をしてあった菜園も置いて、彼らは小さな家を出た。
 新しい家は、ごく平凡な街の中にある家族向けのマンションの一室だった。時が経つのは早い。新しい生活にも慣れ、 街の勝手もわかってきたところだ。



 そして、今千種は動揺していた。目の前に、千種がよく知った少年が現れたのだ。彼は、両側を彼より随分背の高い少年に挟まれ、 笑ったり、驚いたり、慌てたりと忙しい。口を閉じたまま吊り上げ、開いて小さな歯を見せ、大きな瞳を見開き、細め、大 きくゆっくりと、小さく素早く、まばたきをして目を閉じて開く。眉間の皺が解けると今度は頬にえくぼができる。きらきら と忙しく変わる、まばゆいほど豊かな表情だった。
 千種は愕然とした。毎日毎日見ていたのに、目の前に居る彼は、まるで見ず知らずの他人のようだった。千種は、眠り以外の 彼の表情を知らなかった。
 目を閉じ耳を塞いで逃げ出したい、と思ったが、それだけの勇気も無かった。迷ううちに彼我の距離は近づき、彼らの会話が耳に 入ってくる。
「はははは、ありえないから獄寺君。山本もいちいち信じないで!」
「いや、違うんス。それはですね」
「なんだツナ、嘘なのか?」
 平凡だが光に満ちた日常が、そこに溢れていた。まるで初めて出会う他人のようだ。そう感じた途端、 彼ははたと真実に思い当たってしまった。
(そうか、俺は『彼』と出会ってすらいなかったんだ)
 千種ははこれ以上光に目を焼かれぬよう、背中を更に丸め、俯いて歩き出した。




 家へと続く道を。




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