青年が一人、暗い水面を見ていた。あまりに暗くて、深浅が見えない。すぐに底が触れる浅さの ようにも、どこまでも深いようにも感じられる。黒々とした水の中に、時折小さな光が 揺らめく気がするが、焦点を合わせる前に消えてしまう。
 どれほどそうしていたのだろうか。彼はふと顔を上げた。じっと見据えるその先には延々と 暗い水が広がるのみである。恐ろしく大きな河だった。
 青年は立ち上がると、河にそってゆっくりと歩き出した。砂を踏む音がする。



忘却の河のほとりで



   少年が一人、暗い水辺に横たわっていた。半ば水に浸かって、寄せては返す波に洗われている。 青年は少年を見下ろすと、半そでの開襟シャツから伸びた骨っぽい腕や、細い首を眺めた。 うつ伏せになっていて、顔は見えない。
 助け起こすでもなく、黙って隣に腰をおろす。湿った砂が尻を濡らすが、彼は無頓着な風だ。
「……俺、お前を知ってる」
 いくど波が行き来した後だろう、ぴくりとも動かなかった少年が、突然口を開いた。
「奇遇ですね。僕もあなたを知っていますよ」
 人を食った物言いと、艶のあるテノールの声。別段驚きもせずに、青年は少年を見返した。
「でも」
 少年が体を起こすと、あちこち跳ねた髪から、尖った顎の先から、しずくが零れ落ちる。何かを 反射して、ほんの一瞬光った。
「誰だったっけ?」
 やはり驚かずに、青年はにっこりと微笑んだ。少年はいぶかしげに男の顔を見つめて、更に 顔をしかめた。
「お前だけじゃない。なんでだろ……何も思い出せない。俺のそばで、誰か泣いていた気が、するのに」  言葉の割には亡羊として、少年は河の向こうを見た。さっき青年がしていたように、まるで 向こう岸に何かがあるかのように。
「悪いことしたな……」
 遠くに向かって、彼はため息をついた。
「クフフ」
 突然青年が笑った。
「何」
「いや、あなたはあなたですね。それが嬉しくって」
 少年が眉根を寄せても、口を押さえて、含み笑いを続けている。
「俺が俺なのは当たり前だろ」
「ク…クハハハハ!……そうですね、その通り。全くもっておっしゃるとおり」
「記憶はないけどめちゃくちゃに殴りたいよ」
「おやおや。それは恐ろしい」
 苦々しい声に更に声を張り上げて笑い、最後に喉を引きつらせて笑いを収めると、 目尻を指先で拭いながらこう言った。
「ひとつ聞いてもいいですか」
「何だよ」
「忘れてしまったのは、つらいですか?」
 すべての表情を殺して、彼は多分自身のうちで一番真摯な顔をしていた。かすかに息を呑み、 少年もできるだけ真面目な顔を作る。
「いいや」
 少し迷って、しかしはっきりと答える。
「とてもすっきりした気分だよ」
「そうですか……そう、それでいいんです」
 結んだ唇がほどけて、鮮やかな笑みになった。
「……」
 なぜか面食らった顔になって、少年は目を逸らした。輪郭さえ曖昧な薄闇の中、 見るものも見えるものもなくて仕方なくどこまでも広がる水面を眺める。
「何か、光ってる」
「あんまり見ちゃいけませんよ」
「どうして?」
「目がつぶれます」
「あんなに小さいのに」
「だからですよ」
「……わかった」
 仕方なく、少年は自分の膝の間に顔をうずめた。


 
   しばらくすると、少年はそわそわしだした。向こう岸(のあるべき方角)や、青年の肩越しの景色や 、自分の背後を気にしている。手首を見て何もないのに驚きまでした。
「どうかなさいましたか」
「俺、そろそろ行かなきゃ」
「そうですね」
「いいの?」
 あっさりと肯定されて、少年が目を見開く。
「ええ」
「なんだ…俺は、お前が俺と」
 突然口を閉じる。
「なんです?」
「いや、いいんだ」
 年に似合わぬ苦い笑みで、少年は首をゆるく振った。
「でも、お前を置いてはいけない」
 その言葉がすでに、二人がここで別れることを知っていた。苦笑して青年が頷く。
「いいんです。行ってください。でないと、あなたに再会できない」
「……わかった。じゃあ、俺もう行くよ」
 最期の顔は笑顔だった。
「ええ」
「さようなら」
 青年は目を閉じて、少年の言葉を復唱した。
「さようなら」
 目を開けると、そこにはもう誰も居なかった。ひとりぼっちになった青年は、 彼はひとつ瞬いて、忘却の河を見つめなおした。相変わらず、浅いような、深いような、真っ暗な水が 広がっている。
「さようなら、今日までのあなた」
 青年はもう一度目を閉じる。
「そして、お誕生日おめでとう、新しいあなた」
 目を開けるともう、そこには誰も居なかった。








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