沢田綱吉の部屋には何かが居る。

 コクヨウマンション610号室。東北向き広めの1K、駅まで徒歩10分、鉄筋コンクリート製10階建て。何の変哲もない低層マンションの 六階に沢田綱吉は住んでいた。
彼が「それ」に気付いたのは、ちょうど一年前の、十月がそろそろ終わろうとしている頃だ。一日すっきりしない天気が続いた 日の夕方で、晴れたら夕焼けに染まる時間だったが、すでに薄暗かった。半分開けた窓から吹き込む風が、湿っていて冷たかったのを 綱吉は妙に強く覚えている。
 見えたのではない。聞こえたのでもない。感じた、としか言いようがない。言葉では到底説明できないような感覚で 綱吉は「それ」に気付いた。人間の視界のほんのわずかに外、眼球を端の端まで動かしてもぎりぎりで見えない斜め後ろに、 「それ」がいた。
 綱吉を、見ていた。一度気付いた後は、もう二度と意識の外に置けないほどの、痛痒さを感じるような強い視線だった。無防備に晒した 首筋が、ちりちりとしびれた。
全身の筋肉を緊張させ、綱吉は口中にたまった唾を飲んだ。そして。

 何もしなかった。

 振り向いて相手の姿を確かめることも、立ち上がってこの部屋から逃げ出すことも、声を上げることすらしなかった。
してはいけないとわかっていたからだ。視界に入らないぎりぎりの場所。ここが、「それ」と綱吉の境界線で、そこから遠ざかることも 近づくことも決してしてはならないと、悪いことに対してだけ働く彼の直感が告げていた。少しでも動くと、「こわいこと」が、起こる。 綱吉は、知っていた。




「こわいこと」




 それから一年経つ。綱吉は相変わらず610号室で暮らしていた。「それ」は相変わらず、綱吉を見ている。視界に入るか入らぬかの境目に、 完全な静寂を守って、ただそこで見ている。綱吉の部屋は相場に比べて妙に安いとか、部屋番号を聞いて地の人が眉を寄せるといったことのない、ごく普通のアパートメントだ。 部屋に理由があるとも確信できないのと、生来の無精ゆえに、綱吉は「それ」と奇妙な同居を続けていた。
 振り返らなければ、見さえしなければ、無害であると知っていた。
「……あ」
 思わず声が出てしまった後で、綱吉は慌てて口をつぐんだ。部屋は静かだ。冷蔵庫のモーター音だけが、低く小さく響いている。 困惑しながらも、綱吉は髪からしたたり落ちそうだった水滴を、タオルで拭った。風呂上りだった。脱衣所の明かりを背にして、彼は 薄暗いワンルームを前に立ちすくんでいる。
(電気消したのが、悪かったのかな)
 家主がバスルームに入ってしまえば、一人暮らしの部屋は無人だ。当然照明は消していた。都会の頼りない夜の中に、それでも闇が 生まれている。闇は家具の場所や窓との距離の中で、暗がりの濃淡を作っている。
 その、かすかな影の深みに、「それ」がいた。部屋の端、流しと冷蔵庫のあいだの暗がりに、輪郭すら見せず、しかし確かに「居る」。 わだかまった闇の異様な深さと、何よりその執拗な視線が「それ」の存在を明らかにしていた。
相変わらず用心深く、「それ」を直視しないようにしながら、下着一枚の情けない姿で綱吉は途方にくれていた。長風呂でのぼせたので 真夏のような格好で出てきてしまった。しかし秋の夜の気温だ。立ち尽くすうちに熱は奪われつつある。 くしゃみが出そうになったのを必死で我慢して、するととたんに力が抜けた。 一人、軽く微笑んで歩き出す。決して、決して「それ」を見ぬように、固く目を閉じて。
 どうにかクロゼットまでたどり着くと、冷えた体に寝巻きがわりのジャージを取り出した。その 中の闇にまで、「それ」が居そうで心臓がきしきし言う。そして綱吉は、ドライヤーもあてずに部屋の隅のベッドに 転がり込むと、頭から布団をかぶって硬く目を閉じた。
 無精してそのままの、薄い夏用布団越しに、じっと視線を注がれているのが、わかった。自分のにおいの中に 包まって、綱吉はいつのまにか止めていた息を吐いた。安全になった錯覚がして、ほんの少し緊張が解ける。
 「それ」はいつも、、視界の境界の、ほんの少し外側に居た。「それ」はほんの少しずつ、だが 確実に、内に入ろうとしてきている。時折、綱吉の視界に入ることすらあった。ちらりとよぎる  「それ」は、背の高い男のような気も、豊満な女のような気もしたし、小さな少年のようでもあった。 今のように、ただわだかまる闇であることもある。
 見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない。綱吉は硬く目を閉じて、それだけを繰り返し念じ 続けた。見た瞬間に、「こわいこと」が起こるのを、彼は脳より深くて暗い場所で知っている。


 じわじわと、「それ」との距離が縮まりつつあるのを、綱吉は感じていた。







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