アンパンマン



「自分に父親が居ないのは、母さんが食べてしまったからだと思ってたんだ」




『なんにも言わない』



 体重をかけるときしむパイプ椅子に腰掛け、綱吉はそう言って苦笑した。相槌はない。ただ、ひとつの目だけが 綱吉を凝視していた。左目が精一杯左斜め上を向いていた。
「おかしな話だろ」
 しかし綱吉は俯いて自身の手元を見ている。視界には真っ赤な林檎と、パイプベッドの柵越しに、シーツと包帯と、点滴の管と、 その視点の針を固定した医療用テープが見える。赤と白のコントラストがなかなか無遠慮だが、赤は減りつつある。剥かれた皮は、 緩いらせんを描いて下へ垂れ下がっていた。
「だから俺もいつか母さんに食べられるんだと思ってたんだ」
 右手にナイフ、左手に赤い林檎。刃物が果肉を裂く軽い音と共に、少しずつ赤いらせんが長くなっていく。
「それか……あ!」
 突然、長く伸びた皮が落ちた。
「くそ…けっこう長かったのに」
 ため息1つ、また林檎に視線が戻る。
「それか?」
 突然声がした。
「ああ、聞いてたの」
 綱吉はベッドを覗き込んだ。人間大の包帯とギプスの山がそこにある。
「聞こえにくいんですけどね」
「その状態じゃ無理もないよなあ」
 視線の合わせ方すら不均衡だ。片目、他のどこより特徴的な赤目がガーゼとテープで隠されて、青いもう片方だけが綱吉を追っている。
「ほんとに誰だかわかんないね。あなた本当に六道骸?」
「多分ね。あなたが、そう呼ぶなら、僕は六道骸ですよ」
 ぐるぐる巻きでがんじがらめの六道骸がそこに横たわっていた。口の端にまで絆創膏が貼ってあるのでしゃべりづらそうだ。気力で舌足らずになるのを避けているのだろう。むしろ、 憎まれ口を叩く元気があるのがおかしい。
「残念、本人みたいだ」
 特に目立つふくらはぎのギプスに、飛び切りしゃれにならない冗談を書いてやろうと沢田綱吉は思った。もしくは右目のガーゼに ドクロマークだ。
「ぼろ雑巾みたいだね」
「はい」
 綱吉は腰を下ろして、皮むきを再開した。刃物と果実だけを見ながら、会話を続ける。
「よく生きてたな」
「はい」
 林檎はもうほぼ白い。
「怖かった?」
「……」
 最後の、歪曲のきつい場所を小回りにナイフを這わして剥いていく。
「心配したよ」
「……」
「死んだかと思った」
 最後の皮がはがれて、赤い皮が床に落ちた。
「……うん」
 それは小さな声だったが、会話の狭間にぴたりと収まってすんなり綱吉の耳に届いた。誰にも 見せるつもりのない微笑が浮かぶ。
「へんな間」
「ね、その後は」
 唐突な問いだった。
「その後?」
「食べる話」
「……へんな間」
 ふと、綱吉は親にお話をねだるベッドの子どもを思い浮かべた。確かに子ども並みに無力ではある。
「ああ。逆だよ。俺が母さんを食べるんだろうって思ったんだ」
 綱吉は剥いた林檎を丸のままかじった。さくりと妙にさわやかな音がする。
「おかしな話だろ」
「いいえ」
 苦笑には不似合いに強い否定が返った。
「素敵です」
 開ききらない唇がつむぐ、その声はどこか幼い。包帯の隙間の目が僅かにゆがんだ。 おそらく笑ったのであろう。
 無心に咀嚼する人が顔をしかめるのが怖くて、六道骸はそれだけに留めた。







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