草原に居た。青々とした草が、風に揺れて光っている。息を吸うと、 濃い緑のにおいが肺の奥まで入り込む。その光景は見渡す限り続き、 時折小さな丘や低木があるものの、どこまでも続いているようだった。 草原の終わりはほのかにまろい地平線で、そのすぐ上から、真っ青な空 が広がっている。美しい風景だ。
 懐かしい。深呼吸をして、都会ではもはや贅沢品であるその香りを吸い込み、沢田綱吉はふと、そう思った。 そして、すぐにそんな自身に違和感を覚える。彼は、これほど広い草原には、今まで一度も来たことがない。 違和感の根源を探そうと周りをもう一度見渡して、もう一度思った。懐かしい。
「こんばんは、ボンゴレ」
 その声を聞いてすべてを理解し、綱吉はため息をついた。声のするほうへ、顔を向ける。 嫌そうな気配を隠そうともせずに、その名を呼んだ。
「……骸」
 死体と呼ばれた男は、にっこりと笑って綱吉に会釈した。真っ白いシャツが風に揺れている。 シンプルなそれに装飾のない黒のズボンという、彼にしてはずいぶんとまともな格好をしていた。 だが、足元は裸足だ。気持ちよさそうだなと、綱吉は思い、すぐに自分も裸足であることに気づいた。
「奇遇ですね、こんなところで会うなんて」
「何が奇遇だよ……お前が勝手に来たんだろ、俺の夢の中に」
 裸足どころか、綱吉はパジャマ姿だった。白地に青い水玉の、昨日ベッドに入ったときそのままのいでたちだ。
「……散歩していたら、偶然あなたの夢を見つけてしまったんですよ」
「やっぱり、そうか」
 懐かしいはずだ。ここは、綱吉の夢だった。そうでなければ、 こんな美しい草原も、綱吉が寝巻きでここにいることも、骸がここにいることもありえない。 綱吉は自室のベッドで寝ているはずだし、骸は手も足も頭も体も念入りに拘束され、点滴や酸素や カテーテルや計測機器のチューブや管やコードにつながれて、スパゲッティ状態で水の中だ。
「だって、暇なんですよ」
「……人間って、さ」
 唇を尖らせて見せる骸を軽く無視して、綱吉は話し出した。綱吉から骸に話しかけるのは珍しい。 骸は驚き、なぜか少しの不安を感じた。
「なんです」
 そこで不安な方を敢えて選んでしまうのが、六道骸という男だ。あえて、微笑を作る。
「……視覚とか、音とか、においとか、手触りとか、そういう外界からの刺激を全部とっぱらったら、 別に苦しみや痛みを与えているわけではないのに、狂ってしまうんだって?」
「……」
 骸は、無言に笑顔だけを添えた。
「……俺、お前を見たんだ」
「体中を拘束されて…目を、封じられて、水に漬けてあるのはなんでだろうと思ったのだけれど、重力を感じにくくするためなんだろ?」
「……」
 男は答えない。しかし、綱吉は、饒舌な男の沈黙こそが、すべてを語っていると感じた。
「お前はその…苦痛、じゃないか。なんていうんだろう…それから逃げるために、狂わないために、 こうやってひとの夢を見ているんじゃないのか?」
「……」
「……骸?」
「……」
「……ごめん」
「どうして、謝るんですか……」
「だって」
「言わないでいいです」
 気まずく口を開いた綱吉を、当の質問者がさえぎった。
「言わないでいいです……まいったなあ」
大げさな振りで額に手を当てて、大きくため息をつく。
「賢くなっちゃいましたねえ、ボンゴレ」
 その白い手が離れた時には、もう骸は笑っていた。
「ねえ、お願いだから俺がお前を救うなんて言わないでくださいね」
 そして、ただのイメージであるはずの赤い目をくわっと開いた。
「そんなこと言ったら、殺しますよ」
「……気をつける」
 ホールドアップのポーズで綱吉は頷いた。
「……まったく、君といるといつも調子が狂う…ま、今日はボンゴレのはじめてが奪えただけでも良しとしましょう」
「はあ?!」
 不穏な一語に反応した綱吉に、輝く白々しさの笑みが返る。
「では、賢明なるドン・ボンゴレ。今年もよろしくお願いします」
 次の瞬間、笑顔だけを3秒長く空中に残して、六道骸は掻き消えた。さよならもなしだ。
「きもちわる……はじめてって…あ」
 そして、呆然とつぶやく。
「これ初夢だ……」