ちょうちょの背中ってどこなの。 二年ぶりのスイートホームで幸福なうたたねを楽しんでいた沢田家光の内耳に、ふと幼い息子の声が 蘇った。 その手には小さな白い蝶々が捕まっていた。綱吉の小さな丸っこい指の間で、モンシロチョウはい つもより大きく見える。 季節も時刻も、全く覚えていない。ただ、母親譲りのはしばみ色の髪が、柔らかな光を受けて、赤にも金色にも輝いて見えたのを、家光 は覚えていた。 「よくつかまえたなツナ。さすが俺の息子だ」 本心からの言葉だった。ボールを投げれば顔面で受け止め、更に泣き出すまで五秒ほどかかるトロい 息子が、よく小さいと言えど羽のある生き物を捕まえられたものだと。 「えへへ」 彼の息子、綱吉は普段他人の評価をあまり気にしない子どもだったが、父親に褒められてさすがに嬉しそうに微笑んだ。 「でも離してやんな」 「ええー?」 「お前の手についてるその白い粉な、毒あんだぞ」 「どく!」 慌てて息子は手を離した。蝶々は一度ふら付いた後、何度か激しく羽ばたき、彼の 目の前をよぎってから飛んでいった。綱吉の視線も蝶々に付いていく。そして家光の視線は 息子に付いて行った。蝶々を見送る横顔が彼の母親(つまり俺の妻だ、ブラーボ。家光は思った) にそっくりだった。 「蝶々の背中なあ……きれいな模様の付いてるほうじゃねえかな」 正確にはきれいな模様の付いているほうの付いている側だ。家光は、ハネの付属物のような、綺麗でもなんでもない地味で小さな本体を 思い出したが、多分幼い息子には理解できないだろうと判断する。 「せなかのほうがきれいなの、おかしいね」 「そだな。……いや、そうでもねえよ」 「ふうん」 「まあ聞けよ。ほんとにイイ女ってのはな、背中がとびきりキレイなもんなんだよ」 「あのこ、めすなの」 「いいツッコミセンスあんなお前……父さんお前の将来が楽しみででも何故かちょっと不安だぞ」 「ふうん」 生返事だ。すでに綱吉は興味を失ったようで、母親似の丸くて大きな目を、今度はアリジゴクの巣に向けていた。 「んなまるっこい顔してスーパークールだな……蝶々ってのはきれいな女の人みたいなもんなの。ほら、奈々もきれいな背中してるだろ」 言いながら、家光は愛しい妻を蝶々に例えるのに痛みを感じた。 スーパークールな愛息子の返事はない。 沢田奈々は、自覚のないマダム・バタフライだ。無邪気で可憐で純粋で、何より馬鹿が付くほど誠実な蝶々さん。異国の男の子を産み、愛だけを信じて 帰らぬ男を待つ日々を過ごす。そしていつかは、その子どもすら奪われるのだ。自嘲気味に男は思った。 いや、自覚はあるのかもしれない。何も言わない男を受け入れ、愛していると囁きながらそばにいないことを受け入れ、 たより一つない孤独の日々を受け入れる。諦めにも似たその、底なしの受容は、時折すべてを知っていて、それでも知らぬ振りをしているのではないかと疑わせる。 「なあ、知ってるか?お前のマンマはなあ、って俺の奥さんなんですけど!まじでーははは照れるな!は超いい女なんだぜ?」 「へー」 小さな指が、アリジゴクを掘り返そうとしていた。 目を開くと、腕白でもたくましくもないが、それでも蝶々の背中を捜した頃よりは成長した息子がいた。まどろむ前は確かに奈々が居たはずなのに、と家光は 少しの不満を持った。 彼はまとわりつく子どもを宥めているらしかった。甲高い子どもの声に、困惑したり苛立ったりした息子の声が混ざる。その横顔は相変わ らず母親に似ていた。困ったように下がった眉が、どこか茫洋とした 大きな瞳が、薄くて小さな唇が、すべて気味が悪いほど似ていた。そして、何より、その深い受容が。 自分勝手極まる父親の帰還にも、ひととおり驚きと困惑と怒りを示した後は、あっという間に受け容れてしまった。何も聞こうとはしない。その姿勢に どこか投げやりなものあるのが母親とは違うが。 「そう言えばお前、俺の話聞かずにアリジゴクに見蕩れてたよなあ」 「はあ?!なんの話だよ。ていうか起きてたなら手伝って!」 蝶々の息子はさなぎになったところだ。その綺麗でもなんでもない地味で小さな背中には、どんなハネが生えるのだろう。家光は まさにさなぎを見守る少年のような、じれったさと落ち着きのなさを覚えた。それはきっと、母親にも彼にも似て、それでいて全く違う 、新種の生き物だ。 作話トップ |