『ヤロビザーチヤ』 満開の桜の下だった。 倒れ伏し、地面に這い蹲ることなど、何か気に病むべきことではない。確かに無様に見えるだろうが、もと より他人の目など、なんの意味もないものだ。 空気を求めてせわしく吸う空気から、土の匂いが濃くする。呼吸のたびに痛む肺を無理矢理無視して、 うつ伏せに倒れた男は笑った。 ぬかるんだ大地の上に伏していたので、笑った拍子に口の中に入った泥を噛んだ。砂でざりざりした 唾を吐きながら更に笑う。唾液には血の赤も混ざっていた。 「これでまた一晩生き延びたというわけですか」 腕を地面に突いて起き上がると、ごつごつした黒い幹が目に入る。仰のけば霞のような淡い輪郭の 薄紅が、空を塞いでいた。 六道骸は大きな桜の根元にいた。 「少し、あなたの下で休むことをお許しくださいね」 仰向けに寝直すと、六道はしばし呆けたように桜を眺めた。大気に満ちた闇すら払って、一見脆弱 な花は満開を謳歌している。完全な無風の中でも、一つ、二つと花びらが墜落する。ぼんやりと 目が追うが、最後まで付き添う前に、どうしても本体に視線が奪われる。一瞬焦点を失って目が眩んだ。 「ああ」 ふと気付いて、六道は呟いた。 「美しいですね」 繰り返すが、満開の桜の下であった。 それから何度記憶を反芻してもその小さな声がよく聞こえたものだと思い、なればこそ その出会いには一種の運命が働いていたのであろうと六道骸は得心する。 「あ」 呼びかけと独り言の境界線上のぎりぎりで独り言の側に入ってしまいそうな小さな声だ。 振り返るとそこにはやせっぽっちの少年が居た。 声をかけられなければ、すれ違ったことも記憶に残らないであろう、地味で特徴のない、 つまり平凡な少年だった。 「僕、ですか?」 不審の目で少年をうかがった六道の髪にも、少年の肩にも、ほとんど白に近い花弁が乗っている。六道 にとってもはや何度目かも知れぬ桜の季節が、また来ていた。 自分から声をかけたくせに、少年は戸惑った表情をして黙っている。そう言えば、六道を呼んだ時も、考える より先についつい声が出ていたといった様子であった。 「あの……」 春の盛りだ。淡い色の花びらが降りしきる中での架空のような出会いだったが、 前述の通り相手はごくごく普通の少年である。 顔以外の外見にもなんら目立ったところもなく、この辺りでは平均的な衣装である 粗末な綿の着物を着ていた。 「す、すいません」 氷が溶けたように唐突に少年が動き出した。いそがしく頭を下げて、狼狽もあらわに言い訳を始める。 「人違いだったみたいです。お引止めしてすみませんでしたっ」 そのまま踵を返して人ごみに紛れようとした小さな背中を見て、六道はどういう訳か引き止めたくなった。 「待ってください!」 声の大きさにか内容にか、とにかく怯んだ体までの三歩を詰めて、細い手首を掴む。 「な、なんですか」 「あなた、人間じゃないでしょう?」 細い肩に手をかけて、無理矢理向き直らせる。 「ね?」 小さな顔をのぞき込んで、更に追い詰める。 答えはなかったが、目を見開いて息を飲んだ反応こそがはっきりと肯定を示していた。 遠くからかすかに、笑いさざめく声が聞こえてくる。桜にかこつけた祭りが行われているのだ。花を愛でるような 平穏な暮らしからは程遠い六道であるが、祭り好き催し好きの性質である。祭囃子に誘われて、ふらふらと でてきていたのだった。 しかし今は、目の前の少年、の姿をしたものの方がよっぽど興味深い。少し暴れはしたが、手首に絡みついた指が どうあってもはなれないとわかると、俯いたきり身動き一つしなくなった。 「どこで会ったんでしょう。申しわけないんですが、記憶にない。しかし……確かにお会いした気だけがするのです」 でなければ、最初の小さな声が妙に鼓膜に響いた訳も、今妙に胸が騒ぐ気持ちにも、説明がつかない。 「昔」 しかし細い手首を握っていると、理由など要らない気になってきた。それ以上に問い詰めるのはやめにして、 六道が好き勝手に跳ねた頭髪からつむじを探すのに躍起になっていると、彼が自分から口を開いた。 やはり小さな声だ。 「昔?」 また曖昧な。呆れた六道が思わず言うと、茶色の目が上目遣いにこちらを見てきた。 「昔、です」 便宜上の少年はもう一度同じことを繰り返した。自分でもさすがに説明不足だと思ったのか、六道が 口を挟む前に早口で言う。 「あなたが、今のあなたではなかったころ」 せきついに雷撃を食らったような気がした。 衝撃に絶句した六道の視線から、少年のようなものが首を振って逃げる。 「一晩宿をお貸ししました。さっきは、懐かしくてつい。覚えておいでではないでしょう」 「僕を、知ってるんですか。僕ではない僕を!」 上ずった声で畳み掛ける六道を、少年は不思議そうに首を傾げて眺める。 「はい」 頷いて、少年がきっぱりと顔を上げる。六道が再び見た目には強い力があった。 「離してください。もう次の町に行かねばなりません」 そう言うと、先ほどの弱弱しい抵抗が嘘のように、手指の輪から細い手がするりと抜ける。 今度は呼び止める隙もなく、頭を漂白された六道にはその意志もなかった。 彼にしては珍しく呆然自失に陥った六道を置いて、小柄な体は桜の間に消えてしまう。 それもまた満開の桜の下だった。 作話トップ |